これからZEXALを見る人に知って欲しいことと、知らなくてもいいこと
・これからZEXALを見る人に知って欲しいこと
遊戯王ZEXALで一番重要なセリフがある回は26話「開幕!WDC(ワールド・デュエル・カーニバル)」です。 この回だけ覚えておけば大体作品を正しく読み解くことができます。
・これからZEXALを見る人が知らなくてもいいこと
これ以下は遊戯王ZEXALの世界観の元ネタについて軽くお話しします。これは別に知らなくてもいいのでお時間のある方だけお読みください。
突然ですが、
人類、なかなか滅亡しないな〜と思いませんか⁉
今年(2020年)の3月にもマヤ文明の予言とかなんとかで人類が滅亡するというものがTwitterなどで話題になったのは記憶に新しいかと思います。
実は、ZEXALが放映された当時(2011年)はマヤ文明が由来の予言が世界的に流行しており、ZEXALの世界観はその予言をモチーフにしたものになっているのです。
2012年人類滅亡説(2012ねんじんるいめつぼうせつ)は、マヤ文明で用いられていた暦の1つ長期暦が、2012年12月21日から12月23日頃に1つの区切りを迎えるとされることから連想された説である。
21世紀初頭のオカルト雑誌や予言関連書などで、1999年のノストラダムスの大予言に続く終末論として採り上げられてきたが、懐疑的な論者はマヤ暦の周期性は人類滅亡を想定したものではないと反論をしている。学術的にもマヤ人の宗教観や未来観を知る上で意味があるとしても、それが現実に対応するものとは考えられていない。
結果として2012年に人類が滅亡することはなく、この説は従来の全ての「滅亡予言」同様に的中しなかった。
(「2012年人類滅亡説 - Wikipedia」より)
この2012年人類滅亡説はただ人類が滅亡するというだけではなく、「アセンション」というものが起こるといわれてあちこちで話題になっていました。
簡単に説明すると、太陽系の周りにフォトンベルトという光でできた輪状の帯が存在し、2012年12月に地球がフォトンベルトに突入する。フォトンベルトに突入することで人類の意識は次元上昇(アセンション)を起こし、新しい時代(ニューエイジ)がやってくる。みたいな感じだったと思います。
マジで何を言ってんだ貴様はという感じなんですけど、シリーズ構成の吉田伸によってZEXALの世界観の元ネタはニューエイジであることが明かされています。
最初、高橋先生に「新しいシリーズはアセンションだ!」とアイディアを聞かされ「何じゃそりゃ!」と思ったのが、ついこの間の事のようです。
(遊戯王ZEXAL9巻 「ZEXALこぼれ話 FINAL」より)
アセンションは「ランクアップ」という言葉でZEXALに取り入れられており、「アストラル世界」「バリアン世界」という高次元の世界が登場するのもニューエイジからの影響が見られます。他にも「フォトン(光子)」というカード群を使うキャラクターも登場します。
そもそも「ニューエイジ(新しい時代)」ってなんなの?という話なんですが、スピリチュアルの分野ではもう50年以上流行している考えで、物質や肉体を重視する時代から、魂や意識などの霊的なものを重視する新しい時代がやってくるという思想のことをいいます。
ニューエイジは1960年代からアメリカで発展して日本に伝わり、日本では二度大きな流行がありました。
アセンション・フォトンベルトのブームにもかかっている2000年代のブーム(「パワースポット」とかが流行り、「オーラの泉」「ズバリ言うわよ!」などが放送されてた頃です)は二回目で、一回目は1980〜90年代のブームです。
具体的にいうと、1999年7月に人類が滅亡するという「ノストラダムスの大予言」が大流行し、オウム真理教や幸福の科学が設立されたころですね。
「ノストラダムスの大予言」はただの小説で、フォトンベルトの元ネタはなんと同人誌であるにも関わらずどちらも流行したのは、やはり「〇〇年〇月に人類が滅亡する」といった予言が人々の不安を煽る強烈な力を持っているからだと思います。
いま、ネット上の情報などを通じて宗教やスピリチュアルに対する危機感は高まっていると思われます。ですが、人類滅亡説や地震の予言などを前にすると、正しい判断ができなくなる方もいるのではないかと私は思っています。
人類滅亡説とそれに関連した宗教・スピリチュアルが今後流行する可能性は十分にあり、自分や自分の身の回りの人がそれに騙されてしまう可能性があるということをみなさんに知っていただきたいです。
ZEXALのころ流行したフォトンベルトやアセンションはすでに下火になっており、もう当時のように流行ることはないのかな〜と思います。
当時を知らない人もぜひ遊戯王ZEXALを見て、2000年代スピリチュアルの雰囲気を味わってみてください。
劇場版の「遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS」もそんな感じなのでおすすめです。
(※この記事は特定の思想の布教・批判を目的としたものではありません!!)
(一応)もう見た人向け「遊戯王GX」三期のメモ
去年の秋、遊戯王デュエルモンスターズGXを見ました。
☆見てない人向け・遊戯王デュエルモンスターズGXのあらすじ☆
優秀なデュエリストを育てるための学園、デュエルアカデミアを舞台に誰よりもデュエルを愛し、カードに宿る精霊を見ることができるという不思議な力を持つ主人公 遊城十代が様々なライバルと激突。デュエルを通して、アカデミアで発生する数々の難事件を解決していく。
(dアニメストアより)
↑天上院吹雪さんが好きです。
とても楽しく視聴しました。どのキャラクターにも愛着が湧いて、漫画版まで揃えました。
ものすごくハマったんですけど、いまだによくわからなくて悩んでいる部分があります。
タイトルにもありますが三期のことです。
☆見てない人向け・GX三期とは☆
通称「三期」「異世界編」。GXの三年目・105話~156話を指し、作品の中でも異彩を放つ部分。
三年生に進級した十代たち。特別教師としてデュエルアカデミアに招待されたプロフェッサー・コブラが「デスデュエル(ディスクロージャーデュエル)」の開始を宣言する。生徒たちに装着されたデスベルトによってデュエルに対する心の動きを測定するとのことだったが、それは罠であった。
コブラはデスベルトによって生徒たちからデュエルエナジー*1を吸い取り、あるカードの精霊を蘇らせるために利用していたにすぎなかった。デスデュエルの異常さに気付いた十代たちは、コブラの捜索を始める。なんやかんやあって十代たちはコブラを追い詰めるが、コブラに取り憑いていたカードの精霊によってデュエルアカデミアは校舎ごと異世界の砂漠に飛ばされてしまう。
次々にデュエルゾンビ*2と化していく生徒。無くなっていく食料。精神的にも追い詰められていく十代たちは、元の世界に帰ることができるのか!?
三期は鬱展開、暗くてヤバイというのは本当によく聞くので、GXの中で一番見たくないと思っていた部分でした。
実際に見てみて、なんか思ってたより鬱展開ではないなと思いました。
キャラクターがみんな理不尽に死んでいったり、暗くて難解な展開がずっと続くのを想像していたんですが、見ている人を落ち込ませるための「鬱展開」のような意図を感じなかったのです。
自分がどうしてそう思ったのか?そしてどういう風に三期を捉えるべきなのか?
それを整理するために、この記事を書いてみようと思いました。
主にキャラクターの役割、ストーリーの意味について考えていきます。
そのため解釈をまとめた記事ではなく、メモ書きのようなものであることをご容赦ください。
あなたはGXの三期についてどう思いますか?
私は三期を十代とユベルの二人がヨハンのようなヒーローに成長するための1年間であると考えています(今のところ)。
●ヒーローの持つ責任
TURN-112までは新キャラの紹介の話なんですが、TURN-113・114はSAL研究所の地下に現れた佐藤先生が十代の抱える問題点を指摘してくる重要な回です。
佐藤先生に指摘されたことは、三期の間中ずっと重要になってきます。
「キミはこんな質問を聞いたことはないか? ゴミが落ちているのに気付いて拾わない者と、気付かずに拾わない者。 さて、どっちが悪い?」
「そんなの、気付いて拾わない奴に決まってるだろ!」
「違うね…。落ちたゴミに気づいていれば、いつかは拾うかもしれない。 だが気付かない者には、永久にゴミを拾う可能性はない。 十代くん、キミこそ…落ちたゴミに気づかない愚かな人間だ」
(中略)
「キミが凡庸なデュエリストなら、何も問題はないさ…。 だがキミは、三幻魔を倒した英雄だ。破滅の光から世界を救ったのもキミなんだろ?学園の生徒達は、誰もがキミにあこがれている…。キミこそが、この学園の模範となるべきだった」
「オレがお手本なんて、冗談だろ?オレは自分の好きなようにやるだけさ!」
「大いなる力には大いなる責任が伴う。だがキミはそれに気付きもせず、無気力と自堕落さを振りまいた…。キミに毒されなければ、もっと多くの生徒が、その才能を伸ばせたかもしれない…」
「そんな…。」
「十代くん。キミはもはや、みかん箱の中の腐ったみかんと同じだ。だから、私が取り除く!」
(TURN-114「絶体絶命!傷だらけのヒーロー」より)
「私たちには…キミに無い物がある」
「オレにない物?」
「そうだ。デュエリストの底に眠る、心の闇さ」
「心の…闇?」
「デュエリストが心に背負うもの。 十代くん…キミにはそんなものは何もあるまい。」
「オレが心に背負うもの…?」
「私はこれまで、一度たりとも。自分のためにデュエルをしたことはない。 自分のことしか考えていないキミには、到底理解できないだろうねぇ。」
「そんなデュエルをして、何が楽しいんだ!?」
「楽しくなどないさ!…みんなの期待を背負い、強くあり続けるとは、そういうことなのさ」
(TURN-114「絶体絶命!傷だらけのヒーロー」より)
●ヨハンというキャラクター
ヨハンは三期から登場するキャラクターで、デュエルアカデミアノース校(アークティック校?)からやってきた留学生。
宝玉獣に選ばれたデュエリストであり、「精霊と人間のかけ橋になる」「自分のデュエルを通してみんなを救う」という目的のためにデュエルをしている。
「ヨハン…お前、何のためにデュエルしてる?」
「はぁ?」
「オレはさぁ、楽しいから…。いや、驚いたり、嬉しかったり…。やっぱり、楽しいからやってんのかな。悪ぃ。そんなこと急に聞かれても困るよな」
「どうしたんだ、十代…」
「…ちょっとな。」
「オレにはちゃんと目的がある」
「え?ホントか⁉︎ヨハン、お前の目的って何だよ?」
「…誰にも言うなよ」
「あぁ」
(中略)
「そのときオレはわかったんだ。例え精霊を見る力はなくったって、精霊と心を通わせることはできるんだって…だからオレは、そんな人たちのためにも。」
(TURN-115「精霊狩りのギース」より)
佐藤先生に自分が楽しむためだけのデュエルを否定され、コブラと決着をつけるために始めたデュエルに勝つことができたのにコブラに会うことが叶わず、デュエルをする目的を見失いかけた十代との会話。
「精霊の心を理解しない、罪の痛みを知れ!」
(TURN-116「宝玉獣VS地獄の番犬」より)
「オレは、オレの信じるもののために闘う…それをデュエルモンスターズで成し遂げるまで」
「羨ましいよ、お前にはそんな想いがあってさ…俺なんて楽しいだけでなんもないしなぁ」
「そんなことはない。きっと十代は自分で気付いてないだけさ。お前にもお前自身を支える想いが必ずある」
(TURN-117「決戦!十代VSプロフェッサー・コブラ」より)
「十代!オレは、自分のデュエルを通してみんなを救うのが夢だった!いま、それを叶える時が来たんだ!あとは頼んだぜ!」
(TURN-130「レインボードラゴン覚醒」より)
ガッチャポーズをしながら。自身が犠牲となってみんなを異世界から救った時。
SAL研究所侵入時にみんなをまとめたり、異世界に飛ばされてパニックになる生徒たちに冷静で的確な指示を出すなど強いリーダーシップを持つ。
十代と同じく精霊を見る力を持つことやデュエルを楽しむ姿勢や性格から十代と仲良くなるが、十代と違い自分の持つ力に伴う責任を知り、自分の周囲にいい影響を与える人物として描かれる。
ヨハンは佐藤先生が言うヒーロー像にぴったりのキャラクターで、特にヨハンを救うために異世界へ戻ったときの十代と比べてみると正反対です。
三期前半では十代が見習うべきヒーロー像の役割を、後半ではユベルに乗り移られ、精霊の心を理解しない十代とユベルを繋ぐ役割を担います。
●三期における十代
三期における十代の目標は、自分の持つ力を正しく使い、正しい目的のために闘うことができるようになることである。
三期では、世界を救うことのできるヒーローでありながら、その力にともなう責任の重さを知らず、自分が楽しむためだけにデュエルをしてきた十代の無責任さが取り上げられる。
自分のことを頼りにしてくれる翔に対する冷たい対応、アモンからの招待状を失くす、デュエルに負けたら死んでしまうというハードな状況を楽しんでるように見えるなどのちゃらんぽらんな行動のたびにヨハンがツッコミやフォローに回る。三期前半はヨハンと十代の対比のためにあると言っても過言ではないかと思います。
そして十代が自身の罪に気付くのは、自分の無責任さによって仲間たちを失い、そのショックでやさぐれて覇王になり、異世界中を支配し破壊し尽くした後になる。
「まだ奴にはわかっていない。自分の行動の結果に、責任が生まれることを…」
「いや、わかっているからこそ、自らの手でヨハンを助けようとしているんじゃないのか?」
「お前もまだまだ子供だな。」
「何⁉︎」
「もし、十代が異次元へ戻ることを知ったら、周りが放っておくと思うか?」
(TURN-131「エースカード大集合!!開け、次元の扉!」より)
ヨハンを救うために異世界への扉を目指す十代を目撃したヘルカイザーとエド*3の会話。エドは、十代がヨハンを異世界に残してしまったことに責任を感じていると思っている。
「なぜだ!オレの何が悪いって言うんだ‼︎オレは…オレはなすべきことをした!なのに…何もかもみんな、オレの側からいなくなってしまった…‼︎クソ…クソ、クソ‼︎オレの、オレの何が悪いって言うんだ‼︎」
(TURN-136「邪心教典発動!暗黒界の魔神レイン」より)
ここまでの十代は、佐藤先生の言うところのゴミが落ちているのに気付かない人間であると言える。
十代は異世界でのデュエルを通じて、自身が強大な闇の力である覇王の力を持つことを知る。十代は、使い方を間違えれば世界中の人を傷つけ苦しめる力を自身が持つことを受け入れられずに、異世界を彷徨い続ける。この状態の十代は、落ちているゴミに気付いて拾わない人間になったと言える。
「オレは…たくさんの罪を犯してきた…。融合のカードで、たくさんの人を傷つけていった…それなのに…なす術もなく、心の奥から見ているしかなかった。オレは…消えるべきなんだ…!」
(TURN-146「封印された融合」より)
●「支配すること」と「見守ること」
異世界でのデュエルは命のやりとりであることを知りながらデュエルを続けていた十代。邪心教典によって仲間たちを失ってもなお、ヨハンのために闘う十代に疑心を抱いた翔は、十代がどうなっていっても、それを見守り続けることが十代に対する友情の証であるという結論に至る。
「でも、お兄さんを元どおりにすることはできなかった…。ボク、これからどうすればいいんだろう?ねぇ、アニキならどうする?もし自分の大切な人が悪に染まっちゃって、元に戻せないとしたら…」
「見てるしかねぇなぁ…」
「え?」
「たとえそいつがどんなに変わったって、大切な人なんだろ?オレだったらずっとずーっと、見守ってる!」
「え?でも、それじゃあ…」
「あぁ。どうにもならないかもしれない。…でも、何かせずにはいられない。だから、オレだったら最後の最後まで、そいつが嫌がったって、見守っているだろうなぁ。それが、そいつを大切に想っているっていう証だと思うから…」
(TURN-137「翔の決意!『友情の証』」より)
翔の回想。時系列的にはTURN-95「仁義なき兄弟デュエル 亮VS翔」の後。
(兄さんの言う通りだ。遊城十代との出会いを消すことはできない。ボクの人生にとって、最も大切な出会いだったんだから…。もううろたえたりはしない。どんな風に変わろうと、最後の最後までしっかりとこの目で見届けてやる。それが、ボクの友情の証だ!)
(TURN-137「翔の決意!『友情の証』」より)
ちなみに、ジェネックスでのヘルカイザー関連の話でもこの考え方が説かれています。
「最初はオレも驚いたけどな。でもよぉ翔。カイザーには、オレたちには思いもよらないなんかスッゲー考えがあるんじゃないのか?そいつが何か確かめるためにも、いまのカイザーを見てやらなきゃいけないんじゃないか?…なんてな!オレはそう思うぜ!」
(TURN-83「ヘルカイザー亮VSマスター鮫島」より)
変わり果ててしまった兄にショックを受け、ヘルカイザーのデュエルを見ようとしない翔に対して。
(あれは、たしかに亮だった。キミは、リスペクトの心を忘れてはいなかった。ボクに対しても、ダークネスに対しても。そうなんだろう?)
(TURN-89「ヘルカイザーVSダークネス吹雪」より)
闇に囚われているように見えたカイザーを連れ戻そうとデュエルを挑み、敗北した吹雪さんのモノローグ。
大切な人が悪に染まった(ように見える)場合、力尽くで正しい方向へ導くのではなく、見守るべきだというのがこの作品の価値観ということになる。これは、十代に対してそうするべきというだけではなく、ユベルに対してもそうするべきであるということを指しています。
逆に、十代が覇王の力を使い、ユベルを倒す(つまり、ユベルを力で支配し、正しい方向へ導く)べきであるということは、三沢とタニヤが指摘してきます。
「十代!使うんだ!融合のカードを!」
「三沢!」
「責任を取らなきゃならないとしたら、こんな形じゃない!お前でなければできない、本当の敵を倒すことだ!」
(TURN-147「因縁の対決!サイバー流VS宝玉獣」より)
覇王状態から元に戻り、融合を使うことができなくなった十代とバオウとのデュエルで。この後も十代は融合を使うことができなかった。
「甘ったれるな!特別な力を与えられた者は、期待してくれているみんなのために闘わなければならないんじゃないのか!?」
「自分の力に怯えている時じゃない!」
「他の誰にもできない、本当の敵・ユベルを倒せるのは、お前だけなんだ!十代!」
(TURN-147「因縁の対決!サイバー流VS宝玉獣」より)
「十代。お前ならやれる。ヨハンを救い出し、この世界を元に戻すことができる。お前が願えば、その思いが強ければ、それはきっと現実になる。
この次元は、精神と物質がひとつに繋がっている。だから、お前の願いが強ければ、奇跡は起きる。任せたぞ、十代」
(TURN-149「魔神対決!幻魔VSエクゾディア」より)
三沢の話に対してハネクリボーが相槌を打つ。三沢は暗い表情の十代の手を取り、十代を送り出す。十代は覇王の力を使ってユベルを支配するということに納得できていない。
●ユベルを受け入れるということ
ユベルは、覇王の力を持って生まれた十代を守るために自ら望んで力を手に入れた。十代が破滅の光と闘うために必要な力である。だがユベルの心は深く傷つき、自身の力を正しく使えていない。ユベルは、かつて覇王と化し自身が持つ力の使い方を間違ってしまった十代と同じなのである。
十代はユベルと自分の前世を知ったことにより、ユベルが自分のために力を得、そのために誰からの愛情も受け入れることができなくなったこと、前世でユベルが自分の大切な人であったことを知る。
「お前の友は、その心の中に強力な覇王の力を持って生まれた。その力はいつか優しい闇に包まれた宇宙を救うだろう…しかし、少年の心が大人に成長するまで、誰かが彼を守ってやらねばならない」
「王よ、ボクにその役割を申しつけください!」
「だが、少年を守るためには、誰にも傷つけられぬ硬い鱗の鎧を身につけねばならぬ。そなたの若く美しい肉体は、二目と見られぬ醜い龍の姿になってしまうのだぞ」
「構いません!彼を守るためなら…」
(TURN-155「レインボー・ネオスVSユベル究極態」より)
「ボクたちが闘わなくちゃいけないのは、宇宙を破滅に導く光の波動。キミの魂を歪めてしまった光の波動を追い払い、覇王十代の魂が、キミに乗り移る。もしそれで、オレと言う存在がなくなってしまうとしても、オレは構わない。」
(TURN-155「レインボー・ネオスVSユベル究極態」より)
自分の存在が消えてしまっても、ユベルを受け入れるという決意を十代にさせたのはヘルカイザーの最期である。
「きっと…みんな元の世界に戻れる」
「え?」
「みんなと会えたら、伝えて欲しい。『迷惑をかけてごめん』って…」
「まさか、十代…ダメだよ‼︎どんなことがあっても、犠牲になんかなっちゃいけないんだ‼︎」
「いやオレは…そんなんじゃないんだ。みんなのための犠牲になるわけじゃない。オレは…そう。子供から大人になるために、いまから旅に出る。…ガッチャ。」
(TURN-155「レインボー・ネオスVSユベル究極態」より)
このガッチャは、みんなを救うために自らを犠牲にしながらも、「楽しいデュエル」であると言うガッチャのポーズをしたヨハンと重なる。
つまり十代とユベルが、自身の力を正しい目的のために使うヒーローとなるための旅立ちであると取ることができる。
「ガッチャ!楽しいデュエルだったぜ、翔!」
「えへへ。なんか久しぶりだね。これやるの…」
「え?そうか?」
「うん。ずいぶん昔に見たような気がする…」
(TURN-137「翔の決意!『友情の証』」より)
これの一個前のガッチャはTURN-96「相対性フィールド!十代VS天才博士」のようです。本当に久しぶりだった。
●改めて、GX三期について思うこと
「十代」という名前は、この作品を「10代の子供たちに見てもらえるように」というネーミングだそうです。
十代たち、この作品に出てくるキャラクターは、放送時期に合わせて成長し、三期では三年生に進級します。当時放送を見ていた10代の子供たちと一緒に成長していくキャラクターたちは、子供たちに何を伝えようとしていたのでしょうか。
2年目までで「どんなデュエルでも楽しい」というテーマを打ち出しておきながら、「楽しいだけではないデュエルもある」というストーリーに転換したのは、若干どうなの?という感じもしてしまいます。でも、主人公のスタンスを全部一回ダメっていう風にして、こういったストーリーを描き切ることもできるのは遊戯王のような超長期アニメならではだと思うし、カイザー風に言うと味がある作品だと思っています。
あなたは、GXの三期についてどう思いましたか?
私は次三期を見直すなら、アモンに注目して見たいなと思っています。
最近読んだ本
高橋和希先生によるゼアルの設定はニューエイジスピリチュアルが元ネタであることが漫画版の9巻で明かされています。
最初、高橋先生に「新しいシリーズはアセンションだ!」とアイディアを聞かされ「何じゃそりゃ!」と思ったのが、ついこの間の事のようです。
(遊戯王ZEXAL9巻 「ZEXALこぼれ話 FINAL」)
アセンション(次元上昇)っていうのは
日本では2007年〜2011年くらいに有名になった「人類の意識が三次元から五次元に上昇する」みたいな主張のことを指します。
なんかもう全体的には?という感じですが
ゼアルには「ランクアップ」という要素で世界観に取り入れられていて、「地球規模でランクアップが起きる」みたいに言うと分かりやすいかなーと思います。
アセンションのように人間を物質的(肉体)・精神的(魂や意識)な面を持つと捉え、魂の進化を目指すみたいな考えの元ネタは、1875年・神智学の時代までさかのぼります。意外と結構歴史のある(?)考えなのです。
この本ではこのような思想のかたちを「霊性進化論」と呼び、
「霊性の進化をする人」と、逆に「退化していく人」(悪魔とかだらけてる人)や「進化を邪魔をしてくる人」(悪の秘密結社とか悪い宇宙人)の争いという構図が
神智学の時代から1960年代のニューエイジやオカルトブームを経て、オウム真理教とか幸福の科学にどのような影響を与えたのかを探っていくという内容でした。
オカルトと陰謀論の切っても切れない関係性が面白いです。
神智学の流れが詳しく、特に根幹人種の話が詳しいのが助かります。
私みたいな性癖でスピかじってるレベルの人でも読みやすいです。
逆にカウンターカルチャーとしてのニューエイジの起こりや、その後流行するニューサイエンス、それが日本にやってきて「精神世界系」と呼ばれるようになったあとの流れなんかの解説が少ないのはちょっと変な感じでした(別にスピの解説本じゃないし霊性進化の話から逸れるから必要無いのかもしんない)
日本のスピリチュアルが面白いなーと思うのは
基本的に思想は仏教っぽいのに世界観とかにニューエイジっぽかったり神智学やスピリチュアリズム由来の要素が混ざってるとこが変で面白く
例えばオウムがニューエイジに影響を受けている部分は霊的進化的な考えよりも
解脱(煩悩を捨てて輪廻から外れること)を目的としてるわりにニューエイジにありがちな多次元世界的な世界観を持つ点や、「アストラル」といった単語を使用する点だと思っているんですが
いま日本でスピリチュアルって呼ばれてるものはほんとにごった煮みたいな状態になってるので、なかなか簡単に説明できない分野だなーとも思いました。
まあそこが面白いんだけどさー…。
ネガティブな人ほど「遊戯王ZEXAL」を見てほしい理由
10年ぶりくらいにこういうブログを書きます。
今日で放送開始(2011年4月11日)から7年の「遊戯王ZEXAL(ゼアル)」が好きすぎて紹介したくなったためです。
読みづらい部分もあると思いますが、ゼアルってなんだよという人も、名前だけ知ってるという人も、もう見たという人も、私がゼアルを好きな理由を聞いてください。
●遊戯王ZEXALとは
漫画「遊戯王」のアニメ化作品である「遊戯王デュエルモンスターズ」から続くアニメシリーズの4作目で全146話*1のアニメです。
「ZEXAL(ゼアル)」とは情熱(ZEAL)がぶつかり合って(×)何倍にもなるということを表した造語だそうです。
シリーズの4作目ですが、シリーズ間の話のつながりはあまりないので他のシリーズは見てなくても平気です。
主人公のデュエルの腕がだんだん上達していくという話なので、最初はデュエルが簡単めでカードゲームが分からないという人もおすすめです。話が進むのに合わせてルールを覚えていけるところも良いです。
畠中祐さんと増田俊樹さんのアニメ声優デビュー作でもあるのでそこに注目しても楽しいと思います。
ストーリーやキャラの心情に左右されるデュエル展開、画面の美麗さ、世界観の元ネタがスピリチュアルとオカルトといううさん臭さ、最近のアニメとは思えないほど自由な作画、OP・EDに加筆しないと死ぬスタッフ、音楽…などたくさん好きな部分があるんですが、
ストーリーの構成がすごくいいと思うので、最初の2クール(1~25話)のストーリーを中心に解説していきたいなと思います。
●ゼアルのストーリーとテーマ
◯1話のあらすじ
未来のデュエル・チャンピオンを目指す九十九遊馬は、「かっとビング!」を合言葉に、自分の可能性を信じて何事にも挑み続ける元気な少年。しかし、肝心のデュエルの腕前は初心者レベルで、連敗記録のチャンピオンになりつつあった。
ある日、悪友・鉄男のデッキが学校一の不良・シャークに奪われてしまう。恐れず果敢に立ち向かう遊馬だったが、お守りとして大切にしていた「鍵」を壊された上に、全国大会レベルの腕前をもつシャークとデュエルで勝負することになってしまう!
強力なモンスターの召喚方法「エクシーズ召喚」を駆使するシャークを前に、遊馬は・・・!?
◯主人公・九十九遊馬くん
13歳。中学一年生。誰よりもデュエルが大好きだが、腕前はイマイチ…。
弱きを助け、悪を挫く熱血漢。早とちりも多いうっかりドジだが、失敗をおそれず、何事にも絶えずチャレンジし続ける少年!
冒険家の両親は小さい頃に行方不明になり、現在は姉の明里とお婆ちゃんの3人家族。
好物は、お婆ちゃんの作るデュエル飯*2!
口癖は「かっとビングだぜ!オレ!」
◯準主人公・アストラル
異世界からやってきた謎の生命体。
頭脳明晰でクールな性格。デュエルの天才。
遊馬と激突した衝撃で、彼の記憶は99枚の「ナンバーズ・カード」となって飛び散ってしまい、その目的は謎に包まれてしまう。
(公式サイトより)
未来の街ハートランドシティを舞台に、「かっとビング」魂の持ち主・遊馬と異次元から来た天才デュエリスト・アストラルのでこぼこコンビがお互いからいろんなことを学んで成長していくカードゲームアニメです。
コロコロのアニメかなんかか?という感じだし
ストーリーやキャラデザ、本編のテンションからは友情と努力で明るく元気に挑戦していく感じのアニメっぽいですが、あんまり明るいアニメではありません。
ストーリーが暗いという意味ではなく、なんか明るい人向けじゃないのです。
ゼアルが向いている人はどんな人かというと「家族や他人とわかり合えなくて傷ついた経験のある人」だと私は思います。
ゼアルが描いている大きなテーマは
人とわかり合うことを諦めてはいけないのはなぜか
失敗して大事なものを失う辛さを知っても挑戦し続けなければならないのはなぜか
だと思っているからです。
ゼアルの1~25話は
「遊馬とアストラルが失敗の怖さを知ること」
が描かれています。
勇気や才能のない人が一歩を踏み出してチャレンジすることで成功の喜びを知る話の逆です。
勇気ある人と才能のある人が失敗の怖さを知る話なのです。
次から大まかなストーリーを追って説明していきたいと思います。
(※ネタバレを含みます。)
●扉の契約
「この扉を開く者は新たなる力を得る。しかしその者は代償として一番大事なものを失う」
遊馬の夢に何度も現れる、崖の上にある大きな扉。
遊馬は扉が言う「一番大事なもの」にピンと来ていないようです。
この夢を見るシーンから1話は始まります。
●遊馬の自信
スケボー相手に走って学校まで競争したり、とび箱20段や素潜りなど、失敗を恐れず無謀なチャレンジを繰り返す遊馬。
遊馬はそれを「かっとビング」だと言います。
そんな失敗続きの遊馬を、幼馴染の小鳥ちゃんは心配しています。
「もう…ほんっとうにバカなんだから」
「チャレンジだよ、かっとび。『かっとビング』!」
「…って言っても、どれもできてないじゃない」
「わかってないなあ小鳥は…大事なのはかっとび続けること。諦めなきゃ、いつかたどり着けるかもしれない。何つったって、この鍵があるんだからさ!」
遊馬は行方不明になった両親が残してくれた「皇の鍵」を首からさげています。
「それって、冒険家だったお父さんとお母さんの形見なんでしょ?」
「あぁ。この鍵は、いろんな可能性の扉を開けられんだ」
「へぇ~、ほんとにそんな力があるの?」
「ないっ!!」
「ないの!?」
「でもこの鍵を持ってると、かっとべる気がするんだ!くぅ~っ、かっとビングだぜ!!」
(1話「かっとビングだぜ、オレ!!」)
そんな遊馬の一番のかっとビングはデュエル。デュエルのチャンピオンになるのが夢です。
みんながデュエルをしているのを見ていた遊馬と小鳥は、クラスメイトの鉄男がデュエルをしているのを見かけます。
対戦相手は学校一の不良で全国大会出場の経験もあるシャークこと神代凌牙くん。
鉄男はシャークたちに挑発され、自分のデッキを賭けたデュエルを挑まれていました。
鉄男をかばう遊馬。シャークとデュエルして鉄男のデッキを取り返すと言います。
デュエルチャンピオンを目指していると虚勢をはる遊馬に、シャークはデッキを返して欲しければ自分の一番大事なものを差し出すように言います。
遊馬は皇の鍵を見つめます。
それに気付いたシャークは鍵を奪うと、踏み砕いて捨ててしまいます。
遊馬は鍵を壊されてしまった上に、鉄男と自分のデッキを賭けたデュエルをしなくてはならなくなってしまいました。
鍵を壊されて、遊馬はいつものようなかっとビングができないほどへこみます。
可能性の扉を開けてくれるような力はないと自分で言うにもかかわらずです。
シャークとのデュエルを控えて悩み続ける遊馬を、鉄男が止めようとします。
「オレに一勝もできないお前が、シャークに勝てるわけないだろ!?それに、もともとオレのせいだ…借りなんて作りたくねぇ」
「勘違いするなよ。オレはお前のために行くんじゃない。目の前で、大事なものを壊されたんだ。それで引き下がるなんて、父ちゃん母ちゃんならきっと逃げない!オレはオレのために闘うんだ!」
(1話「かっとビングだぜ、オレ!!」)
遊馬の自信はいなくなった両親(特に遊馬にデッキと鍵を残し、「かっとビング」を教えてくれた父親)の存在に支えられているのです。
●アストラルとナンバーズの力
ついにやってきたシャークとのデュエル。
必死にデュエルする遊馬ですが、全国大会レベルの実力を持つシャークには敵いません。
そんな絶体絶命の遊馬の前に夢の扉が現れ、扉を開けると、デュエリストの幽霊(?)アストラルが現れました。
開けた人に力くれるとか言ったのになんかシャークがパワーアップしてしまいました。
アストラルはこの世界に来るとき遊馬とぶつかったショックで記憶が「ナンバーズ」という99枚のカードになってバラバラになってしまい、
そのうちの一枚がシャークに乗り移ってしまったのです。
デュエルの腕も性格も正反対な遊馬とアストラルはまったく息が合いませんが、
アストラルは遊馬のライフポイントが削られるほど身体が透けていきます。
デュエルに負け、ナンバーズを奪われるとこの世界から消滅してしまうと言うのです。
遊馬はアストラルの力を借りてなんとかナンバーズの一枚「No.39 希望皇ホープ」を召喚し、遊馬が閃いたコンボによってシャークに勝利します。
遊馬とアストラルは行動を共にし、アストラルの記憶を取り戻すために散らばったナンバーズを集め始めます。
●遊馬が失うもの
遊馬はアストラルと共にデュエルをするようになり、ナンバーズを賭けたデュエルでの負けはアストラルの消滅に繋がることになります。
「完璧な人間なんているかよ!失敗するから面白いんだろ!?」
『失敗すれば、多くのものを失う』
「……(間)はっ!失敗にビビッてかっとビングができるかってんだ!幽霊なんかには一生わかんねーよ!」
(3話「トドのつまり事件です!」)
遊馬がいままで失敗を恐れずに挑戦することができたのは失敗をしても失うものがなかったからと言ってもいいでしょう。
デュエルの腕が最悪だった遊馬は、アストラルと出会ってからシャークなどの強敵にデュエルで勝つことができるようになり、周りの人から怪しまれだします。
もちろん遊馬の力で勝つことができたデュエルもありましたが、実際ナンバーズやアストラルの指示がなければ勝てなかったデュエルもあり、遊馬の力だけで勝てているとはとても言えない状態です。
10話ではクラスメイトの等々力委員長にそのことを指摘され、それに腹を立てた遊馬は
ナンバーズを使わずに(アストラルの力なしで)シャークに勝てたら自分の実力は本物であることを証明できる
ともう一度シャークとデュエルをしに行きます。
シャークは学校に居場所を失い、さらにヤバそうな不良たちとつるんでいました。
遊馬に負けてからデュエルをやめたというシャーク。
↑初めての本社回なので急に絵が濃い
遊馬はシャークをしつこく追い回し、自分が勝ったら不良グループから抜ける、自分が負けたら皇の鍵を渡すという条件をつけデュエルを挑みますが、
負けるかもしれないという不安からナンバーズを使ってしまいます。
しかし、シャークはナンバーズへの対策をしてきていました。
遊馬はナンバーズを使わないという約束を破った上にぼろ負けしてしまいます。
遊馬は失敗を恐れずに無謀な挑戦ができるというキャラクターではなくなってしまいました。
●シャークが失ったもの
シャークに一度デュエルを断られたあと、帰り路でアストラルが遊馬に尋ねます。
『遊馬。なぜ彼はデュエルをやめたのだ』
「……。そう…なんであいつデュエルをやめたんだろ…」
「それはおまえに負けたからだろ?」
「どうしてオレに負けてデュエルをやめちまうんだよ…」
「負けて失うもんもあるんだよ…」
「負けて失うもの?」
「そういえばシャークのやつ、グレ始めたのはデュエルの全国大会に出たときって話を聞いたけど、そのときにも何かあったのかもしんねぇなぁ」
(10話「逆襲のシャーク!」)
シャークは遊馬に負けて居場所を失っただけではなく、過去にズルをして失敗して大事なものを失ったことがあるキャラクターです。
全国大会で負けるかもしれないというプレッシャーからズルをして、表舞台でデュエルができなくなってしまったのです。
「違う!!オレはシャークのために行くんじゃない。オレ自身のために行くんだ!オレは自分に嘘をついた。シャークを抜けさせるためだとか言って、本当は勝ちたかった!!ただ勝ちたいからナンバーズを使ったんだ…。オレ嫌なんだよ!このまま終わっちまうの!!」
(11話「遊馬とシャーク 傷だらけのタッグデュエル」)
遊馬はシャークに負けるかもしれないプレッシャーから、ナンバーズを使わないという約束を破りました。
シャークはその姿に呆れ、デュエルの後そのまま立ち去ってしまいます。
遊馬は皇の鍵を奪われずに済みましたが、嘘をついたことで友達の鉄男や等々力委員長を失望させてしまいました。
遊馬がデュエルを通じてシャークと同じ気持ちになれたことが、シャークとの和解に繋がります。
●アストラルが知ること
13話ではナンバーズハンターの天城カイトが現れます。
この人が頭おかしい上に作中最強クラスに強いんですが、
弟のハルトの病気の治療のためにナンバーズを集めており、ナンバーズを持っている人の魂を引っこ抜いて魂ごとナンバーズを奪ってしまいます。
遊馬はナンバーズを持っているのでまあデュエルを挑まれます。
負ければ遊馬は魂を抜かれ、アストラルは消滅してしまうという命がけのデュエルです。
「お前だって…このデュエル負けたら消えちまうんだろ!?」
『そうだ。今回は君と条件が同じだ』
「…お前、怖くないのかよ!?」
『わからない…だが後には引けない。それが私の宿命だ』
(14話「『銀河眼の光子竜(ギャラクシーアイズ・フォトン・ドラゴン)』降臨!」)
自分の魂が賭かったデュエルを通じて、遊馬はアストラルが今まで命がけのデュエルをしてきたことを知り、協力して闘います。
そしてアストラルが逆転の一手を思いつきますが、
ほとんどぼろ負けします。
負けてしまうかもしれないという瞬間、デュエルの天才であるアストラルが初めてデュエルを諦めてしまいました。
アストラルはカイトに勝てるのかが分からず、しばらくスランプ状態(?)になってしまいます。
カイトのしもべを名乗るジンに仲間を人質に取られる17話では、アストラルは遊馬の仲間のことや、デュエル自体を諦めようとしてしまいます。
「何ビビッてんだ!小鳥たちを放っておけるかよ!」
『だが君は、カイトに勝てるのか』
「ぐっ!」
『彼の戦略…彼の力。私はあのデュエルで身をもって知った。いまの私たちに勝てる保証はない』
「じゃあお前は!100%勝てるやつとしかデュエルしないのかよ!?」
『そうだ』
「え!?」
『デュエルとは、私にとって生きる意味そのもの。負けると分かっている相手と戦うなど愚かな行為だ』
「てんめぇ…!」
『残念だが、君の友人のことは諦めるしかないようだ』
(17話「すべてを見通す者 恐怖の占い師・ジン」)
「私も…君と共に消滅しよう。サレンダー*3するんだ」
『…ふざけんじゃねぇ!』
「遊馬…」
「オレはデュエルでたくさんのやつと出会ってきた…そりゃ負けることもあったけど…だけど、いっしょにデュエルをやったやつは、みんなオレの大事な仲間なんだ!そんな仲間を、オレはただのひとりだって見捨てることはできねぇ!」
『遊馬、だからこそ私は…』
「まだわからねぇのかよ!お前はオレの大切な仲間なんだよ!アストラル!!」
(18話「カオスエクシーズ・チェンジ!希望の光ホープ・レイ!!」)
『仲間がいれば、希望を信じることができる。…ありがとう、遊馬。私を仲間と認めてくれて』
(18話「カオスエクシーズ・チェンジ!希望の光ホープ・レイ!!」)
アストラルはいままで、自分のためだけに闘ってきました。
アストラルは自身の記憶であるナンバーズを集めるためにデュエルをしているだけではなく、デュエルで負けることが自身の消滅と結びついています。
そのためアストラルは、遊馬の仲間たちを見捨ててでも、勝てない相手とのデュエルを避けることが正しいと考えていました。
仲間の命がかかったデュエルを通じ、遊馬が仲間のために闘っていることをアストラルは知ります。
遊馬が仲間を助けたいという想い、そしてその助けたい仲間の中に自分も入っていることをアストラルは知り、遊馬たちを仲間と認めました。
遊馬や仲間を大事に想うことを知ったアストラルは、同時に大事なものを失うことの怖さも知ることになります。
二度目のカイトとの対峙では、負けてしまうかもしれないという瞬間にアストラルは遊馬と別れることを惜しみ、涙を流します。
自分が消えてしまうかもしれないデュエルを怖いかどうかわからないと言ったアストラルが、負けることを怖いと思うようになりました。
●カイトが失ったもの
「人は大事なものを守るために何かを常に捨てる…私がこの世界を守るために人間を捨てたように。カイトもハルトを守るために人間を捨てたのだ」
(13話「魂を狩る者!ナンバーズ・ハンター現る!」)
「カイト…どうしてお前がナンバーズなんて集めてんだよ!?なんで悪魔の手先みたいなこと…おいカイト!」
「オレは弟のために悪魔に魂を売った」
(24話「魂のエクシーズ召喚!ZEXAL」)
シャークが失敗して大事なものを失ったキャラクターであるように、
カイトは力を得るために大事なものを失ったキャラクターです。
弟を守るために人の魂を狩り続け、感情を表に出さず弟以外の他人に対して心を閉ざしています。
カイトは本編の終盤まで、扉の契約である力の代償を表す重要な役割を持ったキャラクターであると思っています。
カイトとの和解はもっと先の話までかかります。
●遊馬が諦めないこと
アストラルやシャークなど、デュエルを通じてわかり合い仲間になれた人がいる一方で、
デュエルに敗北して大事なものを失いかけたり、アストラルとともに命がけのデュエルを経験して、遊馬は自分にとってのデュエルとは何なのかを考えていたとアストラルに話します。
「お前と出会ってから、いつも負け続けてたオレが強敵にも勝てるようになった。そして、シャークやカイトとデュエルしたときは、負けて失うものがあるってことも初めてわかった。
でも、どんなときだってデュエルを嫌いにはならなかった。そうなんだよ…オレにとってデュエルは勝ちも負けも関係ない。それは…うまく言えないけど…。オレにとってデュエルは、繋がりなんだ」
『繋がり…』
「あぁ。オレはデュエルするみんなと繋がっていたい。そこに勝ちも負けもない…。デュエルすることと、勝負は別なんだ」
『デュエルと勝負は別…。だが負ければ私は消滅する。君の考えは受け入れがたい…』
「お前の気持ちはよく分かる!お前を救うためなら、何だってするさ!
でも…オレ分かったんだ。デュエルには、勝ち負けを越えたものがある。その先に、勝ち負けよりももっと大事なものがあるって…」
(26話「開幕!WDC(ワールド・デュエル・カーニバル)」)
「デュエルとは私にとって生きる意味そのもの」であるとアストラルは言いました。
負けると消滅してしまうアストラルのデュエルは命がけです。しかも、ナンバーズを狙ってカイトがまたデュエルを挑んでくるかもしれません。
確実にデュエルに勝つことよりも、デュエルチャンピオンになるという夢を叶えることよりも大事なものがあると言う遊馬にアストラルは理解を示しません。
たくさんのデュエルをして遊馬とアストラルはどんどん仲良くなっていきますが、
遊馬が勝ち負けよりも人と繋がりわかり合うことを重視することにアストラルはずっと反対し続けます(たぶん124話とかそれくらいまで)。
『遊馬…君と私とは違うのだ』
「はぁ?何言ってんだ。そんなの当たり前じゃねぇか」
(17話「すべてを見通す者 恐怖の占い師・ジン」)
遊馬の他者肯定感は絶妙です。そこが好きな部分でもあります。
遊馬とアストラルは違う。考え方も性格も正反対だし、大事なものも違うのです。わかり合うまでに何度も衝突します。
でもそれは遊馬の言うように「そんなの当たり前」で、アストラルも遊馬の気質を「否定はしない」(46話)し「慣れてきた」と笑う(43話)。
ゼアルは人と人の違いを素晴らしいとか尊重すべきだと描いている作品ではないです。
考え方や大事なものが違うからわかり合えなかったり傷つけ合ったりする。
でも同じ気持ちになったり側にいることはできる。
遊馬が挑み続けるのはそこです。
●デュエルの中にあるもの
『デュエルは神聖な儀式だ。デュエリストなら、デュエルをすることで互いの気持ちがわかる』
(7話「正義の大盤振る舞い!エスパー・ロビン参上」)
「デュエルをすれば相手の全部がわかる!だろ?」
(10話「逆襲のシャーク!」)
「でも、オレはあいつの本当の気持ちが知りてぇ。 本当のデュエルがやりてぇんだ。デュエルをすれば相手の全部がわかるって言ったの、お前のはずだぜ!」
(47話「遊馬が棄権!?奪われた『かっとビング!』」)
「デュエルをすれば相手の全部がわかる」というアストラルの考えを、遊馬は大事にします。
これは原作の高橋先生の考えが元で、キャラクターが使うカードはキャラクターの心を表すというものです。
キャラクターが闘いに込める想いを一枚一枚選んでデッキにする。
正々堂々としたキャラクターなら正々堂々としたデュエルをするし、卑怯なキャラクターは卑怯なデュエルをする。
キャラクターの気持ちがデュエルの中に現れます。
遊馬とアストラルは、デュエルを通じてさまざまな気持ちを持った人とぶつかっていきます。
簡単にわかり合える人ばかりではないし、時には遊馬が受け入れられない考えを持った人や、遊馬のことを受け入れられずに攻撃してくる人とも遊馬はデュエルで繋がっていかなければなりません。
それが3クール目から顕著になってきて、33話からトロン一家が本格的に活躍し始めると、作品の雰囲気が少し変わります。
↑ふざけてんのかってくらい似てないけどちゃんと家族です
トロン一家は復讐というひとつの野望を持った組織にもかかわらず、ひとりひとりが家族や復讐に対して複雑な気持ちを持っています。
そしてトロン一家はデュエルで繋がっている関係でもあるのに、お互いの本当の気持ちを知らないのです。
(このギスギス感がリアルすぎてめちゃくちゃ暗くなります。)
私が特に気に入ってる話はトロン一家の三男IIIくんと遊馬のデュエルです。デュエルするのは47~49話ですが、42話からがこの話の前フリになっています。
遊馬とアストラルは失敗の恐怖と闘いながら挑戦をし続けます。
その姿は私にとって身近だし憧れでもあります。
遊馬たちがぶつかる困難には本当に厳しすぎないかという困難もありますが、そういうときにはデュエルで築いた繋がりが遊馬たちを助けてくれるのです。
私はそこに勇気を貰えます。
●おわりに
ものすごく長くなってしまって、ここまで読んでくれる人がいるのか不安なんですが、いたらありがとうございます。
現在ネット配信や再放送がなく、その上異常なほど長いので視聴しづらい作品ではあると思いますが、よかったら見てみてください。
みんなもかっとビング!!
●追記(2019年4月12日)
そういえばこんなの書いてたなぁと紹介してみたところ、ものすごくたくさんの人に読んでいただけて驚いています。
自分でも読み返してみて、なんかイマイチだなあと思った箇所(「アストラルが知ること」のまとめ部分)をごっそり書き直しました。
最初の2クール以降についての紹介は、私が何を書いても蛇足だと思うのでたぶん書かないと思います。
ストーリーも画もものすごく丁寧で良いアニメなので、気になるという人はぜひ視聴してほしいです。2019年の秋頃にネットで配信されるかも?と予想されていますがどうなんでしょうね?とりあえず、BOXや録画を持っている奇特なファンを探してみるのがいいと思います。